浄化の後に流れ出てきたもの①
わたしは生まれてから、数年前まで好きなものを好きと言えなかった。
好きな人に好きだというシンプルな表現だけではない。
欲しいものを欲しい、嫌いなものを嫌いといえる表現が分からなかったのだ。
何かを買うとき、誰かにこう見られるかもしれない。
否定されない無難なものにしよう。
これはかわいい、でも自分に合わないかもしれない。
店員に似合うと言われても、自分で納得いかない、けれどなんとなく買ってしまう。
でもいつのころからか、話しをするとき、注意深く自分の発言を聴けるようになった。
誰誰が言っていた。
本に書いてあった。
記事になるような内容を引用する。
そうしている自分に気づいたのだ。
誰かのことばを使うということは、責任がない。
誰かのせいにできる。とても楽なのだ。
代弁してくれていると言ってしまえば、簡単に感じる。
本に書いてあるならば、説得力のある言葉に響くかもしれない。
でもどこにも自分という輪郭がない。
頭じゃなく心で感じる。と何度言い聞かせても心で感じる。ということが理解できなかった。
心で感じようとしなかった。感じ方がわからなかった。
その原因を掘り下げて掘り下げていくうちに、感じない自分を作り上げた幼少期の洗脳があった。洗脳といっても自己催眠のようなものだ。
何か事が起こった時、自分はそのこと自体を真正面から立ち向かう勇気がなかった。
うまく逃げられることだけを考えた。
赤面してしまうことや。平静を保てない自分が恥ずかしかった。
恥ずかしい思いをするならば、何もしない、何も考えないということが、最善だと思って逃げた。
空想や妄想の世界、本や、映画、漫画の世界は、自分を閉じ込めるのに良い空間だった。
そうして、自分を表現せず、現実を直視できない人間が出来上がった。
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